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イノセンス
監督:押井守
2004年3月6日(京極東宝)
 
  ~言給ひけるは我儕に象りて我儕の像のごとくに我儕人を造り
  之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めしめんと



 京極東宝にたどり着いたのは上映時間の三十分程前のことで、部屋を出た頃にちらついていた雪もその頃にはすっかり止んでいた。一先ずチケットを取ると次の上映までの時間を潰し且つ空腹を満たす為、蛸薬師通りまで上りると、目についた立ち食い蕎麦屋に這入る。「かけ、熱いところ貰おうか」等と言ってはみるものの葱好きな自分は「おっと、葱抜きで頼むぜ」とは言わず、七味だけ大量に降りかけ、熱い蕎麦を手繰る。葱臭い息を吐き出し出汁を啜っているとどこか天本英世を思い起こさせる黒尽くめの初老の男が這入って来て「おぼろそば。御揚げも一枚いれてんか」等と言う。割り箸を割るその仕草がプロめいていた。この明らかに怪しい男に限らず、土曜の昼過ぎ他にいくらでも安いファーストフード店が乱立する中、わざわざ立ち食い蕎麦屋にやってくるような男たちというのは、何か世間様に顔向け出来ないような後ろ暗さがあるように思えるのだが、酔狂にそのことを尋ねてみたところでロクでもない男のロクでもない過去が出てくるだけだろう。出汁の最後の一滴まで飲み干し「ごっそうさん。美味かったぜ」と、代金200円也を置いて暖簾をくぐる。無論のこと立ち喰いプロならざる身なれば、垂れる講釈の一つも持ち合わせておらず、そのことで何か自分が酷く矮小な存在であるかのように思える。外へ出てみると蕎麦屋の隣の焼き芋屋にえらく行列が出来ていて、それを好奇の目で眺めながら劇場へと戻った。

 劇場内を所在なくうろついていたのは薄汚い死んだ魚の目をしたような男ばかりで、カップルなど皆無といって良く、「スチームボーイ」のフライヤーを持った女子二人組みが、この場の調和を僅かに乱していた他は、何か得体の知れないどんよりとした空気が漂っていた。そんな中に明らかに中年と呼んで差し支えないであろう年齢の男も幾人か混じっていて、そんな男とすれ違う度に「筋金入りか……」と呟かずにはおれない。

 館内後方の座席に着いてみると、隣にいたのが小学校低学年と思しき餓鬼を連れた中年男で、その手にかかえられた巨大なポップコーンを見るにつれ、自然と苦笑いが浮かんでしまう。

 そうこうするうちに上演のベルが鳴り、館内が暗転する。

 漸く、映画が、始まった。



 等と何故か斯様な前書きなんぞを適当に書いてしまう訳なんですが、直截に述べてしまうと、映画「イノセンス」は押井ファン以外にとって冗長で衒学的な退屈な映画に過ぎません。それこそ実在的思索をうながす契機になる程の冗長さで、美術的映像的興味があるならともかく、「だから、避けただろう。可能な限り」というバトーの台詞に思わず笑えてしまうようなコアな押井ファン以外は見るだけ時間の無駄というもので、「ホテルビーナス」か「レジェンドオブメキシコ」でも見る方が余程有意義でありましょう。
 しかしながら、押井守ファンにとっては、この「イノセンス」は、前作「攻殻機動隊-GHOST IN THE SHELL-」よりも遥かに押井節炸裂な紛れも無い押井映画なのであって、惜しむらく点は立ち喰いのプロが出てこなかったくらいのもので、犬も鳥も魚も出放題な押井映画以外の何者でもない映画なのでありました。

 そして以下に僕が書き綴るのは、長らく一人の監督のファンであるということはその監督に限りなく肉薄していくということ等では到底なく、自らの中にその監督の歪んだ鏡像を造りあげていく行為に他ならないということの証左であり、一つの映画を通した自分語りに過ぎず、詰まるところ見当違いなことを書いてると思うけど勘弁してねということなのですが、まぁそんな拙い言い訳はどこか遠くに放りなげておくとして、以下感想なんであります。




■ 二度見る必要があるんだ

 今となっては映画を見終わった直後に感じていたことが、どこかもやもやとなって、全く違うことが浮んできたりで、感想書くのはもう一度見てからにしようかなと思ったりしたのですが、やはり、今この映画について思っていることを書き残しておく必要を感じたりするので、まぁ何とか書き綴ろうと思います。もう一度見た後には全然違うことを書いてるかもしれません(笑) それはそうと激しくネタバレです。あと、ですます調ではどうにも書き難かったので何やら偉そうな文体になっておりますがその辺はよろしく御推察いただき、ただ勘如を願うのみであります。

■ 見せたかったんじゃないのかな。餌に釣られて調べてまわる人間、つまり俺たちに

「機動警察パトレイバー 劇場版」という映画は東京という街を巡る物語でもあって、しかしながらそこで語られる「東京」は失われた原風景としての東京であり、映画の中でも失われつつあるものとして描かれていた。これが「機動警察パトレイバー2 the Movie」になると、もはやそこにあるのは「幻」としての「東京」でしかなく、破壊されるものとして描かれることになる。この違いは一作目の「敵役」である帆場瑛一が「東京」の海に没したのに対し、二作目の「敵役」である柘植行人が「東京」の中で自決したりはせず、「もう少し見ていたい他人」として、「東京」を離れることにも現れている。そして、監督である押井守自身、「東京」を離れ、その後の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」では最早、「東京」どころか「日本」すら描かれていない。で、今作「イノセンス」に於いて都市は「中華ゴシック」等といわれる何とも歪な様相を持った無国籍風都市として描かれている。「ゴシック」という足し算の美学とでもいうべき過剰を旨とする様式にさらに「中華」という装飾が足されることにおいて最早何が何やら解らぬ異形の都市が誕生することになる。そして、この徹底して過剰な異形の都市は、原風景としての「東京」から余りに遠く、要らざるものが過剰に付与されているそのことによって、「東京」の不在、もはや無くなってしまったものへと愛憎を表すものになっている。いうならば決して描かれないものを描くためにあれだけのディテールが必要だったのであり、だからこそ「草薙素子」の「不在」を抱えるバトーの心象風景として、この異形の都市が立ち現れることになったのである。そのため「イノセンス」に於いてバトー達はこの異形の都市を通り過ぎるだけで「機動警察パトレイバー 劇場版」において松井刑事らが、「東京」を巡ったようには巡る必要がない。この映画において都市を巡る必要があるのは観客の方なのだ。そう、だから、ヘリでわざわざロクス・ソルス社を俯瞰しておきながらバトーらがロクス・ソルス社内には決して立ち入らないのは、バトーにとってそれは必要のないものであって、それを見る必要があるのはスクリーンのこちら側にいる人間たちだからなのである。

■ セルロイドの人形にだって魂が入る事あるんだぜ

「不在」といえばこの映画には「敵役」も不在のように見える。「敵役」らしき振る舞いをするキムという存在は一種の狂言回しに過ぎず、彼が仕掛ける「疑似体験の迷路」も、フィリップ・K・ディックの諸作や、萩尾望都「銀の三角」に於ける「ラグトーリンの迷路」などを持ち出すまでもなく、押井守自身繰り返しやってきたことで、実のところ、このシークエンスはこの映画の中でも一番キャッチーな解り易い部分なのであり、(押井守初心者の)観客への数少ないサービスなのであって、さして重要な意味を持つものではない。
 最後に登場する事件そのものの元凶である「少女」も一見被害者に過ぎないように描かかれているのだが、実はこの原作に最も準じているかのように思えるこのシークエンスにこそ、原作との最大の差異が、(それは即ちスクリーンのこちら側にいる人間全てとの差異でもあるが)立ち現れる瞬間なのだ。原作では「被害者が出るとは考えなかったのか?」というバトーが少女に言う台詞に続くのは「要人襲撃1件 殺人2件 傷害12件 その他山ほど軽犯罪を犯した」という人間側の被害を責める台詞であり、これは、サイボーグとはいえ人間であるバトーが言う台詞としてはごく真っ当な台詞である。しかし、映画ではこの「被害者が出るとは考えなかったのか?」に続くのは「人間ではなく、魂が宿った人形たちに」という戦慄すべき台詞なのだ。そして、「だって、わたしは人形になんてなりたくなかったんだもの」と泣き訴える少女に対して「人形たちだって口が利けたら人間になんてなりたくないといったろうさ」と答えるのである。ここに至って生身の人間である少女はスクリーンのこちら側にポンと押しやられ、スクリーンに投影された人の似姿として描かれたアニメーションであるバトーが、突然その牙を観客に向けることになる。この映画に於いて「不在」だと思われた「敵役」はバトーに代表されるこの映画そのものとして突如現れるのだ。否、無論のこと、それは我々観客が気付かなかっただけで、この映画がスクリーンに投影されたその瞬間からずっとそこにあったのだ。
 徹底的なまでに描きこまれたこの映画は、その過剰なまでの精密さを持って、スクリーンの外の根源的な人間存在の「不在」を顕にしてしまった。もはやリアルなんてものはどこにもない。

「イノセンス」というタイトルも含めここまで徹頭徹尾、人を欺き裏切る映画はかつてなかったであろう。この映画に於いては観客も製作スタッフも全て、監督である押井守の被害者に過ぎない。この映画、唯一の救いは遍在するという形で永遠に「不在」になってしまったはずの「草薙素子」がそれでもやはりバトーの前に姿を現すということにあるのだけど、それこそこれは物語の中の話であって、我々の前に「守護天使 草薙素子」が現れるかどうかは定かではないのだ。


 それにしても押井守はとんでもない映画をつくってしまった。こんなものをつくってしまった後、もう押井守は犬を主役に据えた動物映画を撮るぐらいしかないんじゃないだろうか。




   「二度観る必要があるんだ」
   「二度観る必要があるんだ」
   「二度観る必要があるんだ」
   「何度でも、観る必要があるんだ」
                         Talking Head
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