蜘蛛の糸


 糸を垂らしながら降りて来る蜘蛛だと思えたものは蛍光灯を点けるためのただの紐で、部屋の隅で誰かが蹲っていると見えたものはごみを目一杯に詰込んだ黒いビニール袋だった。薄暗いこの部屋のいつもの光景がそんな風に思えたのは意識が何故だかぼんやりとしている所為で、どうにも遣る瀬が無い。それにしてもあまりにぼんやりし過ぎていて、一体何時からここでこうしているのかまるで思い出せないでいて、いやいや、それというのも積極的に思い出そうとしないからで、恐らくその気になってみればそれは直ぐにわかる類のことなのだけれど、どうにも思い出す気になれないでいる。今の私は、このままずっとこうしていれば、何か魂とかそういったものが躯からすっと抜けて出るのではないかと、そんな心地にあって、それはゆっくりと温泉に浸かった後の、あの脱力感にどこか似てないこともない。ああ、そうするとここは何処か鄙びた温泉宿の一室か何かで私は先程温泉からあがってきたばかりなのだろうかと寸刻思うのだけど、勿論、そんなことはなく、ここは私の部屋に他なく、すっかりずぼらして溜め込んだごみがほら、部屋の片隅のビニール袋に目一杯詰込まれている。蹲る人影に見えないこともないが、あれはほら、ただのごみ袋だ。 意識が徐々に明瞭になってくるのだが、どうしたことかそれがまるでいけないことのように思え、思い出してはいけない何かそういったものが私にはあるのではないかと、詮索を始めるのだが、どこからかそれを押し戻す気持がやってきて、どうにか思い留める。すべては、このまま曖昧模糊としているべきで、歴々とした事実なんてものは決して必要ではない。

 いや、しかし。

 目覚めかけた私の意識が再び問うた。この部屋は一体どこなのだろう。いやいや、何の不思議も無い。ここは私の部屋で、何ならほら、灯りを点けてハッキリさせてみてもいい。そう思いながら手を伸ばし蛍光灯の紐を引いてみると、すっとその紐はちぎれ、握った掌の中でモゾモゾと居心地悪そうに動くのは紛れも無く一匹の蜘蛛で、四対の足をゆっくりと動かしながら、その八つの目でこちらを見つめる。いや、実際のところそれは全くの思い過ごしに過ぎず、本当のところはただ私が呆然と蜘蛛を見つめただけだ。
 これは困った。これでは灯りを点けることが出来ず、ここが私の部屋であることを明らかにして思い知らせてやることが出来ないではないか。蜘蛛をじっと見つめながらそう思うのだが、当然ながら思い知らせてやる相手とは蜘蛛ではなく、私自身に他ならない。
 そうだ、灯りが必要ならば窓を開ければ済む話で、それは明らかに冴えた思いつきで、躯を動かすのはどうにも億劫なことだったのだけれど、どうにか窓のところまで這い進むと、窓を開けた。
 窓の外は満目荒涼たる曠野で、開け放たれた窓のこちら側で、私はあんぐりと口をあげ呆然としてしまった。いやいやあまりにひどい混乱だ。私が窓だと思ったものは実際のところテレビのモニターに過ぎず、窓を開けたつもりで、スイッチを押しただけだったのだ。この底抜けの失態に思わず声を出して、あははと笑ってしまってから、ぐしゃりと顔を顰めた。
 モニターの向うの曠野で、小さく何か人影が動いたかと思うと突然にカメラがズームしていき、草一本生えていない大地に穴を穿つ男が画面一杯に広がった。私が見守る中、十分に大きな穴を掘り終えた男は画面の外から何かをひっぱって来ると、穴にどすんと落とし込んだ。それは腹が膨れた女のように見えた。男はおざなりに土をかぶせてから、満足したような、悄然としたような判別つき難い笑みを浮かべた。その顔にはどこか見覚えたがある気がして、いい知れぬ酷薄な気持ちを覚え、慄然として窓をばたんと閉めた。閉めてから、テレビを見ていたのではなかったかと思うのだが、よくよく考えてみれば、この部屋にテレビなど置いてはおらず、一体全体これはどういうことなのだろうか。
 いや、いかに不思議があろうとも、すべては、このまま曖昧模糊としているべきで、歴々とした事実なんてものは決して必要ではない。そう改めて思い部屋を見渡してみる。ひどく薄暗いことをのぞけば普段通りの私の部屋だ。部屋の隅で誰かが蹲っていると見えるのはごみを目一杯に詰込んだ黒いビニール袋であって、この部屋に私以外の誰かがいる筈もない。しかし、あの中にはいっているのは本当にただのごみなのだろうかと、いや、それ以上詮索してはならない。すべては、このまま曖昧模糊としているべきで、歴々とした事実なんてものは決して必要ではないのだ。そう警告を鳴らす早鐘が頭の中で鳴り響き、そろりそろりと塵袋に向かって這い進む私を押し留めようとするのだけれど、今度ばかりは上手くいかず、遂に私の手がごみ袋にかかった。
 ビニール袋の中身ははたして窮屈に身体を折り曲げられた女の死体で、膨れた腹を抱えるように蹲っていた。
 顔が小刻みに震え、目の端がひどい早さで痙攣するのを感じながら、私はバタリと仰向けに倒れこんだ。その私の頭上には蛍光灯を点けるための紐がぶらさがっていて、いやそれは糸を垂らしながら降りて来る蜘蛛なのであって、見る間に蜘蛛は私の鼻の上に下った。無造作に掴み取ると蜘蛛は八つの目で私を見つめながら掌の中でもぞもぞと蠢いた。蜘蛛は私の手の内にあるのに、私の方が、蜘蛛の糸で絡め取られてしまったように感じた。

 ああ、そうか。

 私は不意に、自分が生まれてくる前に母と共に埋められてしまった胎児であることを知った。


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