夢を見ていた金魚 04/5/11
ココアとホットチョコレートの違いに悩み夜も眠れず、爪楊枝の溝の意味が解せず食も細り、不安と焦燥が募り来るのをどうすることも出来ない日々で、例えるなら、それは、洗面台の硝子に張り付く小さな蜘蛛が、日に日に増えていくようなもので、明朝には硝子一面に張り付いているであろうその蜘蛛のことを思うと、どうしようもない畏怖を感じ、何か狂気に似た、いや、何かなんていう迂遠な言葉を付け加えるまでもない狂気そのものが脳髄に満ち、洗い物の溜まったシンクと油がひどくこびり付いたガスコンロを片付けるべく、袖をまくりあげ、洗剤の染み付いたスポンジを持つ手もそのままに、夕陽に染まりつつある路地裏に飛び出すと、己の吐いた血反吐を洗面器一面に湛えた瘋癲の老婆が僕を見つけにじり寄って来て、モグモグと何か繰り返すので、背中に怖気を走らせながら耳を近づけてみれば、「ててなしごがこんなにおおきゅうなって」と言っている様で、思わず身震いして白髪に隠れた顔をよくよく見てみれば、それは僕が生まれる随分と以前に死んだ筈の祖母に違いなく、突然、憎悪に近い感情が湧き上がって来るのを抑えられず、というのも望まれて生まれたのではない僕が望んだ子供を勝手に殺してしまった女がいたからで、それどころか、父の不在を自ら父になることで埋め合わせようとしていた等とまるで見透かしたように女は言ったのであって、その時覚えた酷い失意は二年近くたった今よくやく悪意へと変わり、こうして老婆の姿となって僕の前に現れたのだと、そう思うと、夕陽に染まるどこか遠くの方から踏切の自動警報機が鳴らすカンカンという音が間遠に聞こえて来始めて、次第に甲高くなっていくと、唐突に列車の通り過ぎる凄まじい音が眼前で響き、すとんと幕を下ろしたように急な闇が辺りを包み込み、街灯に照らされた老婆の洗面器の中にまるで腐っているかのような月が映り込んで、そのどす黒い月に一匹の、おそらくはショウジョウバエが止まり、不気味な複眼をギョロつかせると、「チョコレートが固形になったのはつい百五十年ほど昔のことであって、それまではチョコレートといえば全部飲み物だったのさ」等と言い出し、更に何か続けてようとしたのだけれど、老婆がプチリと摘み潰されてしまって、僕が抗議をしようとすると、また自動警報機の音が響き始め、老婆の顔がふいに崩れたかと思うと、それはみるみるうちに無数の蜘蛛の塊へと変わって、ぺしゃりと崩れると、街灯に白く照らされた路地を凄まじい速さで這いながらどこかへ消えてしまい、一人ぽつねんと残された僕は、これはきっと今朝死んでしまった金魚が見ていた悪い夢の続きに違いないと思うのだけれど、いっこうに目は覚めず、訳の解からない呻き声を掻き毟るように搾り出しながら空を見上げてみれば、見事に腐ったまんまるい月が闇夜にぽっかりと浮んでいたのだった。
パチリと目が覚め、酷い寝汗でもかいているものと思うも案外とそうでもなく、むしろ普段の目覚めと違い、余程すっきりとしていて、何故だか落胆に近い気持ちを覚えた。窓から差し込む光の具合はまだそう朝遅くないようだったので、ほんの数時間しか寝ていないことになるのだけれど、何にせよ今日も格別することはないのだし、眠たくなればその時改めて寝ればよい話で、それはもう自堕落だというべきなのだけど、どうするつもりも格別ない。
珈琲でも淹れようと寝室を出て薄暗い廊下に出ると、台所に誰かいる様子で、いや、そんな筈はないと訝りながら、そろそろと廊下を進み、細く扉を開けてそっと覗いてみれば、確かに誰かいて、何か作っている様子で、よくよく見てみれば、それは長い髪のどこか見覚えがあるような女で、いや、しかしそれはここ最近の記憶ではなく、そう、それはもう二年程の前のことであって、等と記憶を手繰っていると、女がこちらに気付き、近付いてくると何の躊躇もなく一気に扉を開け、腰を屈め覗いていた僕を見下ろすようにして、「おはよう」と言った。
いつのまにかすっかり拭き込まれた食卓に並べられた味噌汁の碗やらオカラやらを狐に包まれたようにきょとんしながら眺め、女の促すままに箸を取ると、見かけほどは美味くなく、かといって不味いというほどでもなく、こういった場合は何というべきなのか頭の中でトロトロと言葉を探していると、女の方が先に口を開いた。
「昨日、病院に行って来た」
「うん」
「やっぱり」
「うん」
「赤ちゃん出来たみたい」
「うん」
どこかはにかんでいるかのような女の顔をけして見ずに頷きながら、いや、そんな筈はない。決してある筈がないとそう思う。死人が子を孕む筈がない。身体は僕が眠っているうちに綺麗に洗いでもしたのだろうが、服にはほら、払いきれていない土塊がまだ随分と残っている。どうやってここまで辿り着いたのか知らないが随分と無茶をしたものだ。
「どうせ今度も……」
「今度も?」
いや何でもないんだと言葉を濁す。仮に死人が本当に子を孕んだとして、それは果たして生きた赤ん坊なのだろうか。生きた赤ん坊さえ生んでくれるのならば、相手が死人であってもよいのではないか。
目隠しをして後ろ手を縛り上げ、嬲るようなことばかりしてきた白い肢体を思いだしながら、幾度も舌を這わした女の亀裂から、赤ん坊が出てくるところを想像した。それは何度想い描いてもひどく腐っていて、強い腐臭が鼻をついた。どうせなら、頬がいやに赤いセルロイドの赤ん坊でも孕んでいればよかったのだ。白い産衣に包まれたいまにもドロリと崩れてしまいそうな赤ん坊を抱きながらそう思う。この子を埋葬する時は女と同じところに埋めてやるべきだろうかと、傍らのベッドで微笑む女を見ながら思案するのがどうにも可笑しくて堪らず、自嘲めいた笑いが漏れ、それはいつしか腹をかかえての大笑いになり、こんなに声を出して笑うのはどのくらいぶりだろうかと、それに答えるようにベッドの中の女がブクブクとエアポンプのような声を出していて、気付いてみれば薄暗い廊下で一人声を出して笑っていたのだった。
玄関の靴箱の上に置かれた水槽の中では、金魚が背を向けて死んでいて、ああ、後で埋めにいってやらなければと思いながら台所に入りヤカンを火にかけると、洗面台へ向かった。
洗面台の硝子には目の落ち窪んだ生気のない顔が映っていて、その隅の方に小さな蜘蛛が張り付いてモゾモゾ動いていた。はて、そういえば、何か蜘蛛が出てくるような夢を見たのではなかったかと蛇口を捻りながら思うのだけれど、どうにも判然とせず、まあ気に病むことでもないかと、勢いよく流れる水を両手で掬って、顔をこすりつけると、冷たい水が心地好く、薄らぼんやりとした頭がはっと鮮明になった気がした。顔を俯けたままタオルを手繰り寄せ、綺麗に拭い、さっぱりとした気持ちで目を開けてみると、目の前の硝子が真っ黒な何かにすっかりと覆われていた。
それは無数に蠢く小さな蜘蛛だった。小さな蜘蛛がびっしりと硝子を覆い尽くし、八つもある目をギョロつかせ、硝子がすっかり黒々としてしまう程に張り付いているのだ。
じっとそれを見つめながら立ち尽くす僕の背後で、薬缶が湯が沸いたことを告げる甲高い声を出して、それによって目が覚めるのではないかとそんなふうに思ったのだけれど、今度は決して目が覚めることはなくって、死人が夢を見るとすれば、あるいはこんな夢なのかもしれないとそう思った。
HERE AND THERE2004年4月号掲載
テキスト置き場に戻る
題未定 TOP