蜘蛛の糸 04/6/25


 糸を垂らしながら降りて来る蜘蛛だと思えたものは蛍光灯を点けるためのただの紐で、部屋の隅で誰かが蹲っていると見えたものはごみを目一杯に詰込んだ黒いビニール袋だった。薄暗いこの部屋のいつもの光景がそんな風に思えたのは意識が何故だか薄らぼんやりとしているせいで、どうにも遣る瀬が無い。それにしてもあまりに朦朧とし過ぎていて、一体何時からここでこうしているのかまるで思い出せないでいる。いやいや、それというのも積極的に思い出そうとしないからで、恐らくその気になってみればそれは直ぐに解かる類のことなのだけれど、どうにも思い出す気になれないでいる。今の私は、このままずっとこうしていれば、何か魂とかそういったものが躯からすっと抜けて出るのではないかと、そんな心地にあって、それはゆっくりと温泉に浸かった後の、あの脱力感にどこか似てないこともない。ああ、そうするとここは何処か鄙びた温泉宿の一室か何かで私は先程温泉からあがってきたばかりなのだろうかと寸刻思うのだけど、勿論、そんなことはなく、ここは私の部屋に他なく、すっかりずぼらして溜め込んだごみがほら、部屋の片隅のビニール袋に目一杯詰込まれている。蹲る人影に見えないこともないが、あれはほら、ただのごみ袋だ。 意識が徐々に明瞭になってくるのだが、どうしたことかそれがまるでいけないことのように思える。思い出してはいけない何かそういったものが私にはあるのではないかと、自然意識が詮索を始めるのだが、それをどうにか思い留めた。全ては、このまま曖昧模糊としているべきで、歴々とした事実なんてものは決して必要ではない。いや、しかし。目覚めかけた私の意識が再び問う。この部屋は一体どこなのだろう。いやいや、何の不思議も無い。ここは私の部屋で、何ならほら、明かりを付けてハッキリさせてみてもいい。そう思いながら手を伸ばし蛍光灯の紐を引いてみると、すっとその紐はちぎれ、握った掌の中でモゾモゾと居心地悪そうに動くのは紛れも無く一匹の蜘蛛で、四対の足をゆっくりと動かしながら、その八つの目でこちらを見つめる。いや、実際のところそれは全くの思い過ごしに過ぎず、ただ私がじっと蜘蛛を見つめていたに過ぎない。
 困った。これでは明かりを点けることが出来ず、私の部屋であることを明らかにして思い知らせてやることが出来ないではないか。蜘蛛をじっと見つめながらそう思うのだが、当然ながら思い知らせてやる相手とは蜘蛛ではない。その相手とは、この私自身に他ならない。
 そうだ、明かりが必要ならば窓を開ければ済む話ではないか。と、それは明らかに冴えた思いつきというべきで、軆を動かすのはどうにも億劫なことだったのだけれど、どうにか窓のところまで這い進み、窓を開ける。
 窓の外は満目荒涼たる曠野で、開け放たれた窓のこちら側で、私はひどく呆然としてしまった。いやいやあまりにひどい混乱だ。私が窓だと思ったものは実際のところテレビのモニターに過ぎず、窓を開けたつもりで、スイッチを押しただけだったのだ。この底抜けの失態に思わず声を出しあははと笑ってしまってから、顔を顰めた。
 モニターの中の曠野で小さく何か人影が動いたかと思うと突然にズームしていき、草一本生えていない大地に穴を穿つ男が画面一杯に広がった。十分に大きな穴を掘り終えた男は画面の外から何かをひっぱって来て穴にどすんと落とし込んだ。それは腹がえらく膨れた女のように見えた。男は随分と満足したようで、顔を拭うとひどく凶暴な笑みを見せた。その顔はどこか見覚えたがある気がした。私は言い知れぬ酷薄な気持ちを覚え、戦慄して窓をばたんと閉めた。閉めてから、テレビを見ていたのではなかったかと思うのだが、よくよく考えてみれば、この部屋にテレビなど置いてはおらず、一体全体これはどういうことなのだろうか。 いや、いかに不思議があろうとも全ては、このまま曖昧模糊としているべきで、歴々とした事実なんてものは決して必要ではないのだ。そう改めて思い部屋を見渡してみる。ひどく薄暗いことをのぞけば普段通りの私の部屋だ。それなのに突然部屋の隅に置かれた黒いビニール袋が気になりはじめ、あの中にはいっているのは本当にただのごみなのだろうかと、いや、それ以上詮索してはならない。警告を鳴らす早鐘が頭の中で鳴り響き、そろりそろりと塵袋に向かって這い進む私を押し留めようとするのだけれど、今度ばかりは上手くいかず、遂に私の手がごみ袋にかかった。
 ビニール袋の中身ははたして窮屈に身体を折り曲げられた女の死体で、その腹は確かに膨れていた。
 私は思わず天を仰ぎ、そのまま仰向けに倒れこんだ。その私の頭上をスーッと糸を垂らしながら蜘蛛が降りて来て、鼻の上に下った。無造作に掴み取ると掌の中でもぞもぞと蜘蛛は蠢いた。私は不意に自分が生まれてくる前に、母と共に埋められてしまった胎児であることを知った。

HERE AND THERE2004年5月号掲載

テキスト置き場に戻る
題未定 TOP