浴室 04/8/14
夜を徹しての書き物をして、とはいってもキーを打っていた時間よりも何もせずにぼんやりとモニターを眺めていた時間の方がずっと長かいような具合で、それというのも、この間から書き進めていた話があまりにも長くなりすぎて約束の日にちまでに間に合いそうに無かったから、新しく短い話を書き始めたのだけど、それもどうにも思うようにいかず、結局その短い話も完成するまえに夜が明けてしまったという次第で、このままモニターをぼんやり眺めていても仕方がないし、気分転換に一風呂浴びようと浴槽に湯を張った。
一旦そうしてしまうと書き進める気がまるで失せてしまい、引きっ放しの蒲団にゴロンと横になると、一日中着ていた服がごわごわとして気持ち悪かったから、寝転んだままもぞもぞと脱ぎ捨てて素っ裸になった。そのままただ寝転んでいただけでは寝入ってしまいそうだったから、枕元に転がっていた文庫本を足で摘んで手繰りよせると、ペラペラとページを捲り読み始めた。それは金井美恵子の短編集で、僕はその中の「月」という短編が特に好きだった。それは一組の男女がその関係を刻々と変えつつ歪な循環を為すというような物語で、そういったものを常に書きたいと思っていた僕は、始めて読んだ時に、ガツンと一撃喰らってしまって、軽い眩暈さえ覚えたのだった。ロブ・グリエの諸作や蓮實重彦の「陥没地帯」など、似たような構造を持つ話は他にもあるのだけど、その中にあって、この「月」は真新しい剃刀みたいに完璧で、まるまる読み返すと、またくらくらとしてしまって、文字通り本を放り投げた。仰向けになったまま項垂れると、萎びて左に寄った陰茎が目にはいった。僕は何故だかそれが気にいらず、左に寄った陰茎をどうにか右側にもっていこうとするのだけど、萎び黒ずんだ陰茎は、まるでいうことを聞かず、腐った人参みたいにじっと横たわったままだった。何か可笑しくなってしまって、身を起すと、枕元に置かれたテレビの真っ黒なブラウン管に乱れた長い髪の肋骨の浮き出た安物のイエスみたいな男が映っていた。僕はわざとらしくブラウン管に向かって髪を掻き毟ってみせてから、浴室に向かった。
湯はもうだいぶ溜まっていて、いくらか水を足し掻き混ぜたあと、ざぶりと一気に肩まで浸ると、そのままゆっくりと頭も沈めていった。目を閉じて鼻と口だけを水面に浮べると、換気扇がグオウグオウと回る音と、僕が吐き出す喘ぎ声みたいな息遣いだけが大きく聞こえた。僕は何も考えず黙ってそれを聞いていた。
ちゃぽんと、浴槽の淵を掴んでいた右手が湯舟に沈んで、それに引き摺られるように、僕自身も浴槽の底へ沈んでいった。
湯舟の中で、目をそっと開けると、ぶくぶくと口から漏れるあぶくが、湯面に浮び消えていくのが見えて、僕はその様子をじっと眺めながら、換気扇がグオウグオウと回る音をひどく遠くに聞いた。
HERE AND THERE2004年7月号掲載
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