赤い傘の少女 03/2/28







 例えば雨の降る港に少女がひとり赤い傘を差し立っていたとして、ボウっと鳴るのは霧笛なのであろうかという疑問を雨の降る土曜の午後、ひとり湯槽の中で思うのだが、勿論、その疑問に然したる意味はないのだし、いやそもそも意味がないどころか、その疑問自体が不可解なものなのだから、その疑問の回答を求めるより差し詰め浴室の天井から垂れ落ちようとしている水滴でも眺めている方がよほどましなのではないかと思う雨の降る土曜の午後、これから出かけなければならないというのにこの雨空はいかにも憂鬱だというべきであって、頬に当てた剃刀の刃が何故だか温かいように感ぜられるのはどういう訳なのだろうと思う雨の降る土曜の午後、港ではひとりの少女が赤い傘をくるりと回し、それにつられるように霧笛がボウっと鳴って、雨で視界のひどく悪い港から異国の大きな船がゆっくりと滑り出し、その船に乗る私は、身を乗り出して赤い傘を差した少女を探すのだが、どうにも見つけることが出来ず、降りしきる雨に、ただただ身を打たれるのだった。





「ちぎり蒟蒻が引き戸の中に御座います」
 いや、問題はそんな話ではなくて、今語るべきなのは港から消えてしまったあの赤い傘の少女の行方であって、鱈の白子が引き戸に仕舞われていたとしても、それは問題ではない。あの、雨がひどく降りしきっていた土曜の午後、少女は港から突然姿を消した。港にはただ、赤い傘だけが残されていて、それは確かにあの少女が消えてしまった証なのだ。その日、港から出た船に少女が乗っていなかったことは何度も確認を取っていて、それは確実だと言ってしまって構わないように思える。そもそも、マリエンバートというその船には私が確かに乗り込んでおり、少女がそこにいたならば、この私が気付かないということは在り得ない話なのだ。だから、問題は、その行く当てなどない筈のあの少女が、何故、あの日、あの男を見送った後、(そう、少女が見送ったのは私ではない)港から姿を消したのかということであって、牛鍋に入れるちぎり蒟蒻のことは全く問題ではない。 
「ちぎり蒟蒻が引き戸の中に御座います」
 いや、何度も繰り返すが、問題はそのことではない。あの、雨がひどく降りしきっていた土曜の午後港から消えてしまった赤い傘の少女の行方のみがただ今問題とされるべきで、ザルに山のように盛られたちぎりこんにゃくのことはこの際、全くどうでもよいことで、そのことをどうしようもなく確実なものにしているのは、あの日、あの雨がひどく降りしきる土曜の午後、少女が見送ったのが私ではなく、あの男の方だったというやり切れない事実なのだ。



 

 薄暗い階段を下る。勿論階段を下るからにはその階段はどこからかから続いているものでなければならないのだが、思い出すのはいつも薄暗い階段とその先にある部屋のことで、その階段がどこから続いていたのかは、どうにも記憶にない。それはどこかの洋館から続いていたものかもしれず、あるいは私の部屋から続いていたのかもしれず、いやただ可能性だけを述べるのならばどこから続いていようと不思議はないし、そもそも可能性という言葉には何の不思議も入り込む隙間はない。ともかく確かなのは私はその薄暗い階段を下っているということだけだ。

 階段をすっかり下りきってしまうと小さな部屋に出る。窓はなかったが薄暗いことはない。かといって煌々と灯りが燈っている訳でもなく、ごく柔らかな灯りがひっそりと部屋中に行き渡っている。調度品はどれも大人が使うには小さ過ぎるものばかりで、あちこちに散らかされた玩具の類を見るまでもなく、子供部屋であることは明らかだった。
 乱れたままの小さなベッドに腰を落とし改めて部屋を見渡す。
 白い壁にかけられた額縁には丘の上から見下ろすようにどこかの港町が描かれていて、青い空の下、大きな異国の船が出港しようとしているところだった。壁に掛けられたコルク板には、その船なのだろうか大きな船の写真が幾枚かピンで留められていた。おもちゃ箱から顔をのぞかせているセルロイドの人形は青い目をしていて、じっと船の写真を見詰めているように思える。本棚にはいくつもの絵本が納められていて、箱入りのマザーグースがひと際目を引いた。絨毯の上には何事か書きつけた便箋があったが、どうにも判読することが出来ない。
 何の前触れもなしに小さな鞠が転がってきて足元で止まった。拾い上げて見ると、それは室内にあったにも関わらず何故か泥で汚れていた。部屋に行き渡っている柔らかな灯りが一瞬確かにゆらめいた。
 もう一度室内を見渡す。どこか遠くで霧笛が聞こえたように思うのは勿論私の思い違いで、実際にはこの部屋の静謐さを乱すのは私の他に何もありはしない。
 私はひっそりとした灯りの下、ため息をついた。

 ここにはもう誰もいない。





 どこか遠くから海鳴りのようなものが聞こえる。酒にあまり強くない友人は四、五杯ほどビールを飲んだ後、ゴロリと横になり眠ってしまっていた。私は友人の細君と向かい合わせになって牛鍋をつついていた。とはいっても鍋をつついているのは私ひとりで、細君は俯き加減に給仕をするだけであり会話は途切れて久しく、聞こえるのは友人のいびきとどこか遠くからの海鳴り、そして鍋がたてるコトコトという音だけだった。
 私は何故か責められるような気持ちで黙って箸を動かしていた。
 不意に、俯いたまま友人の細君が口を開いた。
「では、その女の子は、先生の娘さんでいらっしゃいますのね」
 その言葉は全く不意なもので、私はまるで意を解せなかったのだが、何故だかいやな心地がして、額に汗が浮くのを感じた。私はそれには答えず、違うことを訊ねた。
「先程から海鳴りのようなものが聞こえますが、この辺りは海が近いのですか」
「いいえ、海なんてついぞ見たことがありませんわ」
 相変わらず俯いたまま細君はそう答えた。そうして、空になっていた私のグラスにビールを注ぐと、「あら、雨」と言った。
 しかし、雨音など聞こえはしないし、窓の外には晴れ渡った夜空が広がっていて雨雲など何処にもありはしない。
 私は女をぼんやりと眺めながらただ鍋を箸でつつき続け、いっそこの鍋が空であったらどれほどよいだろうかと思うのだった。
 




 港町からは余程遠い都会の一劃。そこは都会固有の無関心さにすっぽりって覆われて作り出されたような、そんな場所で、そこから僅かにのぞく空はいつも何故だか鈍色のように見えた。そんな場所に打ち捨てられるように、その部屋はあった。それは半壊のアパートの一室で、壁の一方は完全に崩れ落ちていたのだが、周囲に立つ背の高いビルの影で、中をのぞくことは出来なかった。それにその部屋は二階にあって、階段がすでに無くなってしまっている今、なんらかの奇妙な偶然でその辺りに迷い込んだ人間がいたとしても、その部屋に辿り着くということはない。
 死体があったのはそんな部屋の中だった。死体は椅子にちょこんと腰掛けて、すっかり朽果てるのを悠然と待っているように見える。既に眼窩は窪み、肉は僅かに表面に付着しているに過ぎず、朽ちたアパート同様に今にも崩れ落ちてしまいそうなそんな様子だった。ただ、不思議なことに死体が着込んでいる黒い洋服は、たった今、衣装箪笥から取り出したかのように真新しく、肉のそぎ落ちた手が持つ傘も、まだ鮮やかな赤い色のままで、まるでその死体に誰かが、たった今洋服を着せたような、そんな印象を与えた。だから、その洋服や赤い傘が、あの少女のものと酷似していても、その死体が即ちあの少女であるとは言い難いのではないかと、そのように思える。それにその赤い傘は確かに港町に残されたままの筈で港町から余程遠いこのような都会の一劃にある訳がない。ただひとつ解らないのは、この港町から生まれて此の方一歩も足を踏み出したことのないこの私が、何故、港町からは余程遠い都会での、それも誰も知らないようなそんな場所のことを、こうも明確に知っているのかということだった。





 薄汚れたどこかの路地裏で男は倒れていた。
 霧笛が近くで聞こえることを思うと、ここはあの港町なのかもしれない。そういえば先程からずっと雨が降っているようにも思える。ただ、確かにここがどこかの港町であったとしてもあの港町であるとは限らない。いやしかし、ここがどこであろうと既に死んでしまったその男にとっては全く関係のないことだ。
 影が染み付いたような黒いアルファルトの上を赤い血がゆっくりと這う様に流れていく。その血が黒いブーツを履いた誰かの足元に流れ着く。その華奢な足を辿ってくと、それは確かにあの日、赤い傘をくるりと回したあの少女に他ならなかった。
 少女の表情は窺い知る事は出来ない。それもそのはずで私の視点はぴったりと少女の視点に張り付いているからだ。しかし、私が少女だという訳ではない。むしろ私はそこに倒れている男の方であるというべきで、いや、あるいはあの日異国の船に乗っていったあの男の方なのかもしれないし、あるいは少女の行方を捜しているあの男なのかもしれない。確かなのは私がこの少女ではないということだけだ。
 何故こうも要領を得ないのだろうか。全ては私の理解の外にあって、私はただずっと見守っているだけで、私には堂々巡りを続ける思考の他何もない。
 降り止まない雨が路地裏に倒れた男に容赦なく降りかかっている。
 少女は赤い傘をくるりと回すと、私であったかもしれない死んだ男を残して、路地裏を立ち去っていった。

 またも霧笛がボウっと鳴るのだが、ここがあの港町であるという確信はまるで持てない。





 自分が受けた依頼が何であったか思い出せないでいる探偵ほど惨めなものはない。雨雲が低く垂れ込める町をさまよい歩きながら私はそう思う。今はっきりと解っていることは港町から確かに少女が消えてしまったということだけで、あとはもう何もかもはっきりしない。あるいは少女など始めからいなかったのもしれない。しかし、そのことは私が受けた本来の依頼とは何の関係のないことのはずだった。いや、勿論、私は自分の依頼が何であったかまるで解らないでいるのだから、その少女を探すことが私の仕事だったのかもしれないし、あるいはその少女自信が私の依頼者だったのかもしれない。いや、そんな筈はない。少女の失踪は私がこの町に来てからの話であって、少女の失踪が、私がこの町を訪れたきっかけではないはずなのだ。
 はて、と雨が降る中、立ち止まり私は思う。そういえば一体私はいつからこの町に滞在しているのだろう。あまり強くない酒を勧められるままに飲んだせいか、頭の中はまるで霞みがかかったようではっきりしない。そもそも本当に私は探偵なのであろうか。どういう訳か、この町に来る以前の記憶がまるでない。いや、そんなはずはない。私には確かに家庭があって、たまに訪ねる友人と鍋でもつつきながらビールを飲むのを楽しみにするようなそんな人間だったはずだ。そのはずなのに、今ではそのこともまるで遠い過去の出来事のように濃い靄がかかってしまっている。
 思わず雨の中、立ち尽くす。
 すると、そんな私の目の前で突然赤い傘がくるりと回った。
 はっと見遣るとその傘の持ち主である少女が雨の中、駆けていく。
 私は訳も解らず、少女を追いかけていくのだが、いつまでもいつまでも少女には追いつけない。
 
 とうとう薄暗い路地裏に迷いこんでしまった私は確かにどこか遠くで霧笛がボウっと鳴るのを聞いた。
 

 ああ、船が戻ってきたのだ。



テキスト置き場に戻る
題未定 TOP