迷路の町 02/11/13


 空はどんよりと曇っていた。私はいつものように娘の手を引き家を出た。娘はお気に入りのセルロイドの人形を至極大事そうに抱えている。それは白い産着を着せた赤ん坊の人形なのだが、出来はそう良いものではなかった。
 だらだらと坂道が続く中、ほんの気紛れから四辻の手前でひょいと横町に這入った。そこは軒の迫った狭く薄暗い処で全く初めて通る処だった。近所でまだまだ知らぬ通りがあるものだと私は至極感心してしまった。ふと、娘の方に目を遣ると、なにやら頻りに人形の赤ん坊に話しかけていた。その声はそう小さなものではなかったが、何故だか杳として聞き取れなかった。私は気にせず見知らぬ道を進んだ。
 両脇の家の軒樋を水が流れて行く音が聞こえたような気がした。今朝は雨でも降っていたのかといぶかり、記憶を辿ってみたが判然としなかった。やがて、道はいつもの大通りに出た。いや、出たつもりであった。実際そこはまったく見知らぬ通りで、西洋の街のように綺麗に石畳が敷かれ、立ち並ぶ家々も煉瓦造りの立派な家ばかりであった。引き返せばよいものを、気紛れのついでとばかり、娘の手をしっかりと握り直し、歩を進めた。娘はまだ人形に何事か話し掛けていたが相変わらず何を言っているのか解からなかった。
 昼だと云うのにぼんやりとガス灯が灯っていた。しかし何故だか通りは薄暗かった。往来を行く人々はみな一様にコートに身をつつみ、目深に帽子を被っていて、その表情を窺い知ることは出来なかった。通りをこのまま行くと広場に出るようだった。広場には大勢の人が集まっているようだったが、不思議と賑わいは感ぜられなかった。私はどうにもそちらに行く気持がしなかったので、ひょいと路地に這入った。表の通りよりさらに薄暗いその路地は、しばらく行くと階段になっていた。階段の両側にはまるで切り立った崖のように灰色の家が隙間なく並んでいて、一応窓や屋根もあるのだがこちら側に向けた扉はまるでなく、その様子は全く気味がわるいものだった。階段を登っていくと途中いくつか踊り場があってその都度、階段は向きを変えるのだが、灰色の家は途切れることはなく、私はいよいよ恐ろしくなってきた。
 幾分進むとまた踊り場に出た。しかし今度は階段は三つに分かれているのだった。そのうち左側の階段は降りになっていたから、私たちが登ってきた階段を合わせて、丁度二つずつ降りと登りがあることになる。私はいい加減途方に暮れてしまった。解かっていることと云えば来た道を引き返せばもとの通りに戻れるということ位だった。突然娘が、「猫がいる!」と大きな声をあげた。見ればもう一方の降り階段の方を黒猫が降って行くところであった。娘は私の手を振り払うようにして駆け出すと猫を追いかけて行った。私は慌ててその後を追った。何度も足を踏み外し階段から転げ落ちそうになる私と違って娘は飛びように階段を降って行っていった。私が全く追いつくことが出来ずにいるうちに、階段は分岐し、時に登り、時に降りになり、娘にようやく追いつくことが出来た時にはまるで道を失ってしまっていた。 そこは四方を登りの階段に囲まれた底辺のようなところで、見上げれば随分と遠い処にどんよりとした空があった。その空は確かに家を出た時と変らぬもので私は何故だか少しほっとした。
 娘は猫を見失ってしまったらしく至極残念そうな顔をして私の方を見上げた。そして、そうした後、俯くとセルロイドの人形に向かって話しかけた。先程は聞き取ることの出来なかった娘の声を聞き私はぎょっとしてしまった。娘は私の名前を人形に向かって呼びかけていたのだ。吃驚して娘の方を見ると、娘は何と本物の赤ん坊を抱いていた。セルロイドの人形ではない、赤みの差したその頬は確かに人間の赤ん坊のものだった。娘はその赤ん坊に向かって私の名前を呼びかけあやしていたのだ。私が見ていることに気が付いたのか、赤ん坊がその大きな目をぎょろりとこちらに向けた。恐ろしい気持でその顔を見ると赤ん坊はにやりとまるで大人のように笑ってみせ、その後、大きな声でわざとらしく泣き始めた。娘は私の名前を叫びながらそれをどうにか鎮め様とする。私はもう堪らず、情けない悲鳴をあげながら、その場を逃げ出した。
 灰色の迷路を闇雲に逃げ惑う私に、赤ん坊の泣き声が何処までも何処までも付き纏って来る。

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